安部首魁らと縁有るものの処置

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政権が交代した場合は下記記事国家戦略特区ワーキンググループ(WG)構成員は全員政府とは永久無縁に処するのが正常です。
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加計学園同席も記載なし 戦略特区WGの議事要旨

2017/8/6 20:02

 政府の国家戦略特区ワーキンググループ(WG)が2015年6月、獣医学部の新設を提案した愛媛県と同県今治市ヒアリングした際、学校法人「加計学園」(岡山市)の関係者3人が「説明補助者」として同席していたにもかかわらず、公開された議事要旨には記録がなかったことが6日、分かった。WGで座長を務める八田達夫・大阪大名誉教授が、政府が設けた特区のホームページにコメントを掲載し明らかにした。
 八田氏はコメントで、議事要旨に残さなかった理由を「今治市が説明補助のため同席させた。説明補助者は参加者と扱われず、公式な発言も認めていない」としている。
(共同)

安部首魁らの愛しい愛しい子分には、金田・豊田・稲田・程度の者がたくさんたくさんいていつでも代わりがあるのでしょう。今回は二世議員世襲制の欠陥品を起用したものです。
以下は、欠陥人と自白した様子が報道されています。

「答弁、役所の原稿を朗読」 江崎担当相、地元で発言
2017/8/6 朝刊
写真を見る→
 江崎鉄磨・沖縄北方担当相(73)=愛知10区=は五日、地元の愛知県一宮市で記者団の取材に対し、今後の国会答弁で間違いを避けるためとして「役所の原稿を朗読する」などと発言した。担当閣僚としての責任を放棄したと受け取られる可能性がある。
 安倍内閣では稲田朋美元防衛相ら閣僚に不適切発言が相次ぎ、内閣支持率の下落につながったことから、三日の内閣改造までに問題発言があった閣僚を軒並み交代させたばかり。それだけに改造直後に飛び出した江崎氏の不適切な発言は新内閣に打撃を与えそうだ。
 改造前の安倍内閣では閣僚の答弁が問題視されてきた。自身の対応方針を問われた江崎氏は「しっかりお役所の原稿を読ませていただく。答弁書を朗読かな」と発言した。
 北方領土問題に関しては「素人は素人。白紙で、皆さんの知恵で色をつけてもらうことが大切」などと話した。さらに、北方担当を含めた入閣そのものが「重荷だったの。はっきり言って」と心情を吐露した。
 江崎氏は記者団の取材後、本紙の取材に対して、役所の原稿を朗読するとした発言の真意について「自分の思いで話すと、どこかで揚げ足を取られかねない。間違えたことを言ってはいけないという意味。答弁書を自分でチェックした上で読む」と説明した。北方領土問題に関しては「今まで専門に携わっていないということ」と釈明した。
 江崎氏は内閣改造前日の二日、首相からの入閣要請を「激務をこなせる自信がない」としていったん断った。直後に派閥会長の二階俊博幹事長から説得され、一転して入閣に応じた経緯がある。

【政治】
江崎沖縄北方相 答弁「役所の原稿朗読」 地元・愛知で発言入閣は「重荷」
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2017年8月6日 朝刊
あいさつする江崎鉄磨氏=5日、愛知県一宮市の事務所で
 江崎鉄磨・沖縄北方担当相(73)=愛知10区=は五日、地元の愛知県一宮市で記者団の取材に対し、今後の国会答弁で間違いを避けるためとして「役所の原稿を朗読する」などと発言した。担当閣僚としての責任を放棄したと受け取られる可能性がある。
 安倍内閣では、稲田朋美元防衛相ら閣僚に不適切発言が相次ぎ内閣支持率の下落につながったことから、三日の内閣改造までに問題発言があった閣僚を軒並み交代させたばかり。それだけに改造直後に飛び出した江崎氏の不適切な発言は新内閣に打撃を与えそうだ。
 江崎氏は、改造前の安倍内閣では閣僚の答弁が問題視されてきたことから、自身の対応方針を問われ「しっかりお役所の原稿を読ませていただく。答弁書を朗読かな」と発言した。
 北方領土問題に関しては「素人は素人。白紙で、皆さんの知恵で色をつけてもらうことが大切」などと話した。さらに、北方担当を含めた入閣そのものが「重荷だったの。はっきり言って」と心情を吐露した。
 江崎氏は記者団の取材後、本紙の取材に対して、役所の原稿を朗読するとした発言の真意について「自分の思いで話すと、どこかで揚げ足を取られかねない。間違えたことを言ってはいけないという意味。答弁書を自分でチェックした上で読む」と説明した。北方領土問題に関しては「今まで専門に携わっていないということ」と釈明した。
 江崎氏は内閣改造前日の二日、首相からの入閣要請を「激務をこなせる自信がない」としていったん断った。直後に派閥会長の二階俊博幹事長から説得され、入閣に応じた経緯がある。
 江崎氏は、父の故江崎真澄通産相の秘書などを経て一九九三年に衆院に初当選し、現在六期目。国土交通副大臣衆院消費者問題に関する特別委員長などを務めた。
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ブロゴス記事より

■ メディア
【読書感想】綾瀬はるか 「戦争」を聞く II
fujipon

綾瀬はるか 「戦争」を聞く II (岩波ジュニア新書)
作者: TBSテレビ『NEWS23』取材班出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2016/07/21メディア: 新書この商品を含むブログを見る
内容(「BOOK」データベースより)
爆心直下で被爆しながら奇跡的に命をつないだ人々、被爆直後の惨状の中で生まれた命、原爆症の父を支え続けた娘…。戦争体験者の言葉を通して平和の意味を考えます。大きな反響を呼んだNEWS23綾瀬はるか『戦争』を聞く」シリーズの書籍化第2弾。
 NEWS23の「綾瀬はるか『戦争』を聞く」では、広島県出身の綾瀬さんが、戦争体験者と時間をかけて、直接話をされています。
 この本によると、なるべく自然な形で話をしてほしい、ということで、「あの綾瀬はるか」が来る、ということは、取材相手には事前に知らされない、ということでした。これを読んでいると、被爆体験をされた年齢層の方には、綾瀬さんを知らない人も少なくないようです。
 広島、長崎に原爆が落とされたのは、1945年。もう70年以上が経過しており、あのときのことを語れる人の数は、減り続けています。
 被害者の4分の1は、現在でも自分が被爆者であることを誰にも話せずにいる、との統計も紹介されているのです。
 福島の原発事故のあとに起こったとされている、さまざまな差別をみても、その気持ちはわかるような気がします。
 7歳のときに被爆した神戸美和子さんは、中学1年生のときに朝鮮戦争がはじまった際に、こんな体験をされています。
神戸「原爆がどんな悲惨なものか、どんな凄惨なものか、友達にすごく言ったのね。そしたら二日くらいたって私の周りからスーッと誰も私に近づかなくなったの」
綾瀬「やっぱり被爆者だと思われたから?」
神戸「うん。それまで、とても仲のいい友達もいたんだけど。で、私はその子の袖をギューッと掴んで、校門のところまで引きずっていって、『私が何したの? どうしたからみんなに私は嫌われているの? 言うて!』ってすごく言ったら、その子ね、ポロッと泣いて、『あんた、被爆しているでしょ』って。『あんたから放射能が出てみんなにうつるから、みんなそばに行かないようにしてる』って。で、私もうびっくりして、うちに帰って母にウワーッと泣きながら言ったのね。そしたら母が『これから先、絶対に被爆のことは言ってはいけない』って固く口止めされたの」
 当時、原爆や放射線に対する知識はほとんどなく、何の根拠もないままに「ピカの毒がうつる」などの偏見が広まっていたのです。
 以来、被爆のことを封じてきた神戸さんでしたが、45歳の夏、入院している兄嫁の見舞いに行った時のことでした。
 末期ガンに冒されていた兄嫁の雅子さんは、原爆で酷いヤケドを負い、体にケロイドがありました。
 ケロイドは、ヤケドの跡が盛り上がったもの。
 その醜い姿は、多くの被爆者を苦しめました。
神戸「被爆のことを黙っててはいけないって私を一生懸命さとすんです。両方の肩から着物を脱ごうとしるんです。で、私が『どうしたの?』って言ったら、『私の背中には酷いケロイドがある』って。右側全部がケロイドだったのね。こういう形で(右方向から)被爆したんですって。『この体を写真に撮っておいてほしい。で、世の中の人が汚いとか気持ち悪いとか言ったら、原爆に遭うとこういう体になるんですよって言ってちょうだい』って言うんですね。『私はそれでいいから』って。それでもう私は写真撮る勇気もなかったし、『姉さん、いいからいいからいいから』って……」
綾瀬「……」
 この一週間後、政子さんは息を引き取りました。
 遺言となった想いを託され、神戸さんは40年間隠し続けた被爆体験を語るようになったのです。
 あれから70年あまり。
 科学技術が進み、みんなの知識も進歩したように思い込んでいたけれど、東日本震災後に起こったことを考えると、人間そのものは、劇的に進化したわけではないのです。
 広島では、工場や作業場に動員されていた中学生たちが、多数、原爆の犠牲になっています。
 そのなかで、あの日、軍の命令に背いて生徒たちを建物疎開の作業に行かせなかった学校があったそうです。
 いまも広島市内にある比治山女子中学校・高等学校の女学生たちは、「今日は風がなくて、空襲の危険が高そうだから」という校長先生の判断で、あの日、疎開に加わらず、被爆を免れました。
 その女生徒のひとり、大石雅子さんに、綾瀬さんは問いかけています。
綾瀬「でもすごいですね、その時の先生の判断で色んなことが変わる……」
大石「そうですね。なかなか言いづらいことですけれどもね。やっぱり、うん……、話したくない人が結構いますよ。結局、他校の同級生は亡くなっていて、そのお母さんもいるわけですよ。お母さんお父さんもね。『あんたはどうして生きているのか。うちの子は死んだ。あんたはどうやって生きているのか。どうやって助かったのか』そうやって聞かれるのがつらいって、生き残った同級生の皆さんはおっしゃったですね。でもやっぱりあの、私は……本当のことを伝えていかなければ、伝わらないって思いますね」
 この判断をした比治山高等女学校の国信先生は、戦後、地元の新聞の取材でこう語っておられます。
「ほとんど全滅という当時一、二年の生徒の中で、比治山高女生が助かったことは、神に感謝している。しかし反面、悶死した他生徒のことを思うと、運命の皮肉に胸がしめつけられる思いだ」
 生き残った人たちは、何も悪いことをしたわけではなく、「運がよかった」だけなのに、そのことに負い目を感じたり、「生き残った意義」を考えたりしながら生きてきたのです。
 僕はこの本で、奄美大島の女性たちが手先の器用さを買われて長崎の兵器工場で働かされ、そこで被爆し、多くの人が亡くなったことを知りました。