三笠宮の記した皇室典範

■ 政治
三笠宮がのこした 「生前退位論」 - 森?暢平(成城大学文芸学部マスコミュニケーション学科准教授)
文藝春秋SPECIAL 2017冬

七十年前、皇族自ら皇室典範を論じた意見書が提出された。退位論議が進む今こそ読まれるべき、貴重な提言
森?暢平 成城大学文芸学部マスコミュニケーション学科准教授
三笠宮による意見書(大阪府公文書館蔵)
三笠宮崇仁親王が10月27日に逝去した。その際、いくつかのメディアが紹介したのが、「新憲法皇室典範改正法案要綱(案)」と題された意見書であった。今から70年前の1946(昭和21)年11月3日。三笠宮が、新しく制定される皇室典範について意見を述べるために枢密院に提出したものである。私は2003年、この意見書が大阪府公文書館に秘蔵されていたのを発掘した。そこには、いままさに議論の的になっている天皇の退位も論じられている。「天皇に……『死』以外に譲位の道を開かないことは新憲法十八条の『何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない』といふ精神に反しはしないか」。政府案の全否定である。三笠宮がこのように政府を強く批判したのにはどのような背景があるのだろうか。
戦後の皇室典範は1946年7月11日、臨時法制調査会で審議が始まった。その3週間前、帝国憲法改正案が帝国議会に提出され、基本的人権の尊重、自由権、平等権が明文化されることを前提に議論が開始されていた。皇室典範議論のポイントは、憲法の原則を、皇室典範にどう盛り込むのかという点になる。具体的には女性天皇生前退位が争点として想定された。
たとえば、調査会幹事で外務省条約局長であった萩原徹は「(憲法草案に)男女同権の規定があるからと云つて女帝を認める必要はない……(皇室典範は)日本の根本的な規定であり従つて日本の伝統的な考へ方を入れて作らるべきであるから退位の規定の如きを設ける必要はない」と書いている(「皇室典範改正に関する私見」46年7月15日)。一般に官僚出身の委員・幹事は、戦前の皇室制度の骨格を残したままの新皇室典範を構想したのである。ところが、法制調査会のなかの学界出身委員は違う意見であった。東京帝大の宮沢俊義憲法学)は女性天皇を認めたうえで、退位についても「天皇はその志望により国会の承認を経て退位するを認める」と主張した(「皇室典範に関して」46年7月)。
ここで退位をめぐる厳しい論争になる。話は、退位一般であるが、さらに「昭和天皇が退位すべき」という現実の道義論が重なり、議論はややこしくなる。しかし、宮内省からつぎのような意見が出され、議論は収束に向かう。すなわち、退位を認めると、即位しない自由を認めることになり、極端な場合、継承資格をもつ全ての皇族が即位を拒否し、天皇制の存立さえ危うくなる―という意見である。

学界出身の委員は納得しなかったが、大勢は8月中に決した。
10月26日、臨時法制調査会は、退位を認めない内容を含む「皇室典範改正法案要綱」を完成させ、吉田茂首相に提出した。退位を認めない理由として、退位を認めると混乱を生じること、現実問題として憶測を生じ困難な事態を招くおそれがあることが挙げられた。憶測とはもちろん、昭和天皇の退位のことである。そして、この臨時法制調査会の「皇室典範改正案」がそのまま政府案になり、枢密院、そして帝国議会で審議されることになった。
「譲位といふ最後の道」
三笠宮が意見書を起草したのはまさにこのタイミングである。三笠宮は枢密院議員であり、他の議員たちの目に触れることを前提に、新憲法が公布される11月3日、約9600字の意見書を書き上げた。「はしがき」「皇室典範改正の基礎観念」「皇位継承」「立后」「摂政」「皇族」「むすび」と章立てされている。
さて、意見書の内容である。三笠宮は議論の前提として、新しい皇室典範案は明治の典範を基礎として新憲法の精神に沿わないところだけを事務的に変更した性格が強いことを指摘している。こうした典範案は「面倒を省く」という点では優れているが、一時の糊塗にすぎず、「将来必ず問題が起(こ)る危険性を含んだ案」であると三笠宮は強調する。まさに70年後のいま、問題が起こることを予見していたかのような記述である。
三笠宮は新憲法天皇は、国政に関する権能を失い、国事行為についても内閣の助言と承認を必要とすることになったことの2点と、基本的人権の尊重が原則であることの矛盾について書き進めていく。つまり、「新憲法基本的人権の高唱されてゐるに拘らず……許否権すらもない天皇」ならば、もし、天皇と内閣の間に意見の対立があった場合、どうするのか、と問うのである。
戦後、一部の憲法学者は、天皇を押印と署名のためのロボットのような存在として位置づけている。たとえば、稲田陽一は「天皇の役割は……ロボツトにすぎず、平均人以下の能力を有する者でさえ勤まり、何等常識的判断力すら要しない」と論じた(「天皇世襲制人間性」『岡山大学法経学会雑誌』19号、1957年)。純粋な法理論としては正当な議論であるが、天皇が人間であり、意思と個性の持ち主であることは議論の外に置かれている。三笠宮が反発を覚えたのもこの点であろう。

三笠宮は言う。天皇は「生れつき大所高所から全国、全世界を眺める様な教育」を受けているから大局的な判断に優れている。だから、百年に一度起こる国家存亡にかかわるような判断(たとえば、開戦のような)を内閣がなした場合、それに反対の意見を持つこともありうる。そんな極限状態で、「天皇に残された最後の手段は譲位か自殺である」と三笠宮は続ける。「天皇が聡明であり、良心的であり、責任観念が強ければ強い程此の際の天皇の立場は到底第三者では想像のつかぬ程苦しいものとならう。……天皇に譲位といふ最後の道だけは明けておく必要がある」。むろん、些細な理由で退位するのも問題である。そこで「天皇皇室会議に対し譲位を発議することが出来る」という規定で、最終的には皇室会議での決定に任せるべきであると三笠宮は主張するのである。
三笠宮は、のちに紀元節復活に反対するなどリベラルな思想の持ち主である(このため、右翼陣営からは攻撃を受けた)。リベラル派主流は、天皇からすべての政治的権能を奪うことで、天皇という権力を抑制することを目指した。それが日本国憲法のつくりである。ところが、三笠宮はリベラルな皇族の立場から、その憲法天皇の人権を奪うという危険性を主張したのである。天皇・皇族だけが基本的人権を与えられない矛盾を指摘したと言ってよいであろう。このことについて、憲法は皇族は人権の番外地であるとして例外と考えてきた。その矛盾が、今回の生前退位問題の背景にもある。
三笠宮象徴天皇制についても鋭い見方を意見書のなかで示している。それは、戦前の天皇制は、「国民の前に全くヴエールをかけて現人神として九重の奥深く鎮ま」っていたが、新しい制度のもとでの「天皇は性格、能力、健康、趣味、嗜好、習癖ありとあらゆるものを国民の前にさらけ出して批判の対象にならねばなら」ず、そして、「実際問題とすれば今迄以上に能力と健康とを必要とする」であろうと指摘した点である。
憲法学者のロボット天皇観とは全く異なる天皇観である。戦後の天皇制、とくに平成に入ってからのそれは、三笠宮の予想した通りになっており、いままさに天皇の「能力、健康、趣味、嗜好」が問題になっているのである。三笠宮は「天皇は象徴であり、無答責だからといつて馬鹿でも狂人でもよい」という考え方に、異議を唱えた。皇族でなければ書けない言葉づかいである。
そうしたうえで、天皇崩御したら、自動的に皇太子が即位するシステムではなく、皇室会議の議を経て、国民の承認という形を取った方がよいと提言する。その方が、新天皇の「適格性を保証」し、「天皇の地位を強固にする」と考えたためであった。これは、即位の際、議会への宣誓書提出が必要であるとした現行ベルギーの制度と同様、王政と民主主義を調和させる考え方である。リベラル派の三笠宮らしい発想と言える。
女性天皇、皇族の結婚にも提言
では、女性天皇についてはどうか。ここは、若干歯切れが悪い。将来的には認めてもいいが、現状は難しいと言っている。それは、「今の女子皇族は自主独立的でなく男子皇族の後に唯追随する様にしつけられてゐる」ためである。だから、「今急に全国民の矢表に立たれるのは不可能でもあり全くお気の毒でもある」と言うのだ。これは、東久邇宮成子内親王、孝宮和子内親王ら、現在の天皇陛下の姉たちを念頭に置いた記述だと思われる。仮に、昭和天皇が退位して、どちらかの内親王天皇となっても、務まらないであろうという実際論である。
しかしながら、「今や婦人代議士も出るし将来女の大臣が出るのは必定であつて内閣総理大臣にも女子がたまにはなる様な時代にな」れば、男女共学のもとで学んだ女子皇族の個性も男子皇族と「だんだん接近して来る」であろうから、そのとき今一度、女性天皇の問題を再検討すべきだと言っている。あれから70年。女性首相は出現していないが、女性の大臣や知事は珍しいことではなくなっている。そうした意味では、現代においては三笠宮女性天皇容認論者と言えるのかもしれない。
さらに、三笠宮皇室典範の政府案で批判したのは、男子皇族の結婚が自由でなく、皇室会議の議を経なければならないという規定である。これについて、三笠宮は「抗議を申込む」と強い調子で反発した。新しい民法では「婚姻に親の同意さへ必要としなくなつた」ので、「当然皇族も同様に取扱はるべきである。皇族だけこの自由を認めないのは皇族の人格に対する侮辱である」とまで書いている。その理由は、「愛といふものは絶対に第三者には理解出来ないし、又理論でも片付けられないもの」だからであるという。
こうした規定が設けられたのは、皇位継承の可能性のある者が、それにふさわしくない配偶者を選ぶことを防ぐためであった。
これに対して、三笠宮は「之からの皇族は小さい時から男女共学となり、指導に依つては立派に自分自身で皇族の配偶者としてふさはしい立派な人を選び得る」と主張する。
三笠宮はさらに皇族の性教育にまで言及する。「従来の皇族に対する性教育はなつて居なかつた。さうしていざとなつてから宛も種馬か種牛を交配する様に本人同志の情愛には全く無関心で家柄とか成績とかが無難で関係者に批難の矢の向かない様な人を無理に押しつけたものである」。5人の子供に恵まれた三笠宮自身が妻、すなわち百合子妃との結婚生活がうまくいっていなかったとは思えないが、1941年のこの結婚は自分の意思とは関係のない決定であったことは確かである。皇族の務めが、皇位継承者確保のための子孫を残すことであるとするならば、皇族の側から見れば、種馬か種牛にすぎないとなるのだろう。これもまた、皇族だからこそ、書ける表現であった。
現在の議論をどう思われるか
さて、こうして提出された三笠宮の意見書はどう扱われたのだろうか。結論を先に言えば、まともに取りあげられなかった。枢密院では、11月13、14日の両日、皇室典範案について小委員会で審査が行われたが、三笠宮の意見書が枢密院議員に送られたのはその後の11月18日である。そして22日に3回目の審査が行われ、政府案を帝国議会に提出することが認められた。この間、意見書の内容が議論された形跡はない。
そもそも三笠宮昭和天皇と微妙な関係にあった。天皇はこの年春の段階で、自らが退位しない理由として、弟宮たちについてつぎのように指摘していた。「秩父宮は病気であり、高松宮は開戦論者でかつ当時軍の中枢部に居た関係上摂政には不向き。三笠宮は若くて経験に乏しい」(木下道雄『側近日誌』3月6日条)。退位すれば、皇太子(明仁親王)が即位するが、まだ12歳のため摂政を置く必要がある。しかしながら、3人の弟宮は誰もふさわしくないと昭和天皇は言っているのだ。30歳の三笠宮を「若くて経験に乏しい」とした評価が正当なのかどうかは疑問だが、信頼をおいてはいなかったことがうかがえる記述である。
明日につづく