年末年初に、津地鎮祭判決を読む

二 憲法20条3項により禁止される宗教的活動
[7] その3項は、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」と規定しているが、その解釈の指導原理となるべき政教分離原則の意義から考えると、右規定によつて国及びその機関が行うことを禁止される宗教的活動とは、宗教の布教、宣伝、信者の教化、育成を目的とする積極的な活動にとどまらず、宗教上の祝典、儀式、行事など宗教的意義を有する一切の行為をいうものと解すべきである。そしてこのように、宗教的活動の意味を広く解すべき実質的理由は、次のとおりである。
[8] およそ歴史に知られた民族で宗教をもたなかつたものはないといわれる。もちろん、宗教学又は宗教史学にいわゆる宗教と、法律学上の宗教とは必ずしも同様に解すべきではないが、宗教に関して、神学者、哲学者、宗教の科学的研究者たちは、古来さまざまな宗教の定義を提示しており、その多様さは、学者の数だけ定義の数もあるといわれるほどである。それゆえ、わが国においても、法律上どこにも宗教の定義が示されていないことは当然であると思われる。また、アメリカ合衆国憲法にも、宗教もしくは宗教的ということばの定義は見られないのみならず、アメリカ連邦最高裁判所は、もろもろの宗教又は宗教らしいものに対応するに際して、宗教や宗教的という用語を定義することなく、この語がどういう意味をもつにしろ、アメリカ合衆国憲法修正1条が「社会的義務に違反し、もしくは善良な秩序を破壊する行為に介入するような」政府の行動を禁止してはいないということで満足していたのである。すなわち法は、行為の抑制のためにつくられるのであるから、法は、宗教的な信念や見解そのものに干渉することはできないが、宗教的活動に対しては抑制が可能であるとしたのである。換言すれば、あらゆる宗教又は宗教らしいものを憲法上宗教として取りあつかい、その外部に現われたところのものを問題とするにとどまつたのである(清水望、滝沢信彦共訳、「コンヴイツツ・信教の自由と良心」のうち、宗教とは何か、参照)。
[9] 思うに、わが憲法においても、宗教又は宗教的という語は、できうる限り広く解釈さるべきものである。しかるにこれを厳密に定義し、また、これを狭く解するときには、それ以外の宗教ないし宗教類似の行為には20条の保障が及ばないこととなつて、信教の自由が著しく制限される結果となるばかりでなく、反面、国家と宗教の密接な結びつきが許容される道を開くこととなるであろう。
四 本件起工式の性質
[10] 多数意見は、起工式が工事の無事安全等を祈願する儀式であり、「祈る」という行為を含むものであることまでは認めているが、今日では、それは一般人及び主催者の意識においては、建築上の儀礼と化してしまつているから、世俗的行事と評価されているとしている。すなわち慣行だというのである。もちろん世の中には、その起源を宗教的なものに発してはいるが、現在では宗教的意義を有しない諸行事が存することを認めないわけにはいかない。正月の門松は、年々減少していくようであるが、縁起ものとして今日でも行われている。雛祭りやクリスマスツリーの如きものも、親が子供に与える家庭のたのしみとして、あるいは集団での懇親のための行事として意味のあることが十分に理解できる。そして今日では、これらは宗教的意義を有しないとすることもできるであろう。しかし、原審認定のような状況下において、本件起工式をとり行うことをもつて、単なる縁起もの又はたのしみのようなものにすぎないとすることができるであろうか。多数意見も認めているとおり、本件のような儀式をとり入れた起工式を行うことは、特に工事の無事安全等を願う工事関係者にとつては、欠くことのできない行事とされているというのであつて、主催者の意思如何にかかわらず、工事の円滑な進行をはかるため、工事関係者の要請に応じて行われるものなのである。起工式後のなおらいの祝宴をめあてに、本件儀式がなされたとはとうてい考えられない。ここに単なる慣行というだけでは理解できないものが存在するのである。けだし、工事の無事安全に関する配慮が必要なだけならば、現在の進歩した建築技術のもとで、十分な管理がなされる限り、科学的にはこれにつけ加えるべきものはない。しかるに、工事の無事安全等に関し人力以上のものを希求するから、そこに人為以外の何ものかにたよることになるのである。これを宗教的なものといわないで、何を宗教的というべきであろうか。本件起工式の主催者津市長がたとえ宗教を信じない人であるとしても、本件起工式が人力以上のものを希求する工事関係者にとつて必須のものとして行われる以上、本件儀式が宗教的行事たることを失うものではない。これは宗教心のない喪主たる子が、親のために宗教的葬式を主催しても、それが宗教的行事であることに変りがないのと同様である。
[11] 本件においては、土俗の慣例にしたがい大工、棟梁が儀式が行つたものではなく、神職4名が神社から出張して儀式をとり行つたのである。神職は、単なる余興に出演したのではない。原審の認定するとおり、祭祀は、神社神道における中心的表現であり、神社神道において最も重要な意義をもつものである。このことは、すべての神道学者が力説するところである。神社の宗教的活動は、祭りの営みにあるといつてよいくらいである。祭祀は、神社神道における神恩感謝の手ぶりであり、信仰表明の最も純粋な形式であるといわれる。教化活動は、祭りに始まり、祭りに終るということができるのであつて、祭祀をおろそかにしての教化活動は、神社神道においては無意味であるとされる。すなわち祭祀は、神社神道において最も重要にして第一義的意義を有するものであり、儀式あるいは儀礼が最上の宗教的行為なのである。
五 宗教的少数者の人権
[12] 本件起工式は、たとえ専門の宗教家である神職により神社神道固有の祭祀儀礼に則つて行われたものとしても、それが参列者及び一般人の宗教的関心を特に高めることとなるものとは考えられないというのが、多数意見である。神社神道が教化力に乏しいというところから、そういう議論になるのであろうが、たとえそうであるとしても、そのような儀式に対してすら、違和感を有する人があることもまた事実である。もとより、個人あるいは私法人が起工式を行うに当たり、神社神道又はその他の宗教によることは自由であり、これこそ信教の自由であるが、本件起工式は、地方公共団体が主催して行つたものであることが、案外、軽視されているように思われてならないのである。すなわち国家や地方公共団体の権限、威信及び財政上の支持が特定の宗教の背後に存在する場合には、それは宗教的少数者に対し、公的承認を受けた宗教に服従するよう間接的に強制する圧力を生じるからである。たとえ儀式に要する費用が多くなくても、また一般市民に参加を強制しなくても、それは問題でない(本件起工式では、来賓として地元有力者等150名の参列をえ、工事責任者が出席し、津市の職員が進行係をつとめ、被上告人請求の目的となつている挙式費用7,663円を含め公金17万4千円を支出した。)。要するに、そういう事柄から国家や地方公共団体は、手をひくべきものなのである。たとえ、少数者の潔癖感に基づく意見と見られるものがあつても、かれらの宗教や良心の自由に対する侵犯は多数決をもつてしても許されないのである。そこには、民主主義を維持する上に不可欠というべき最終的、最少限度守られなければならない精神的自由の人権が存在するからである。
「宗教における強制は、他のいかなる事柄における強制とも特に明確に区別される。私がむりに従わされる方法によつて私が裕福となるかもしれないし、私が自分の意に反してむりに飲まされた薬で健康を回復することがあるかもしれないが、しかし、自分の信じていない神を崇拝することによつて私が救われようはずがないからである。」(ジエフアソン)
[13] 国家又は地方公共団体は、信教や良心に関するような事柄で、社会的対立ないしは世論の対立を生ずるようなことを避けるべきものであつて、ここに政教分離原則の真の意義が存するのである。

[14]六 以上が、反対意見に追加する私の意見であるが、その一及び二項において、私は矢内原忠雄全集18巻357頁以下「近代日本における宗教と民主主義」の文章から多くの引用をしたことを、本判決の有する意義にかんがみ、付記するものである。

(裁判長裁判官 藤林益三  裁判官 岡原昌男  裁判官 下田武三  裁判官 岸盛一  裁判官 天野武一  裁判官 岸上康夫  裁判官 江里口清雄  裁判官 大塚喜一郎  裁判官 高辻正己  裁判官 吉田豊  裁判官 団藤重光  裁判官 本林譲  裁判官 服部高顕  裁判官 環昌一  裁判官 栗本一夫)