関東軍:1300人捜索 在郷軍人手配の書
2017年08月15日

◇大阪・泉佐野市で見つかる 届けない者「厳重に処罰」

 日中戦争が始まる半年前の1937年1月、満州(現中国東北部)を事実上統治していた関東軍が、所在不明の在郷軍人約1300人を捜索するために作成した手配文書が大阪府泉佐野市で見つかったことが分かった。

 日本女子大の吉良芳恵名誉教授(日本近現代史)によると、同様の文書は終戦で廃棄されたとみられ、これまで確認されていない。吉良名誉教授は「網の目のように張り巡らされた召集制度の恐ろしさを垣間見ることができる」と指摘している。

 文書は37年1月9日付でB5判29ページ、題名は「所在不明在郷軍人ノ居所届出ノ件」、差出人は「関東軍司令部」。いろは順に約1300人の氏名が並び、職業、日本の本籍地、満州での在留地などが記されている。本籍地は47都道府県と樺太(現ロシア・サハリン)に広がり、満州国軍の教官もいた。

 冒頭で「本人ハ勿論其ノ他心當リノ者ハ其ノ居所ヲ至急最寄官署ヘ届出ツヘシ」と呼び掛け、同3月末までに届け出がない者は兵役法施行規則に基づき告発し厳重に処罰するとしている。日中戦争に向かう中、在郷軍人の所在把握が緊急課題だった様子がうかがえる。

 徴兵による兵役を終えた在郷軍人は、戦時に臨時召集されるが、平時に満州で行われた演習や点呼に応じなかった者が手配されたとみられる。関東軍が本籍地の自治体にリストを送付し、地元警察が満州から戻っていないかどうか行方を捜したとされる。

 泉佐野市によると、93年に始まった市史編さん事業で、行政文書の中から発見された。市史は2009年までに完成したが、戦時中に不名誉とされた所在不明者の情報が大量に含まれることなどを考慮し、この文書は収録しなかった。リストには大阪府大土村(現泉佐野市)に本籍地がある者も1人掲載されていた。

 吉良名誉教授によると、当時の満州では召集を逃れるために姿をくらます者や、転居や旅行の届け出をしない者が増え、戸籍の把握が懸念されていたという。吉良名誉教授は「満州に渡った在郷軍人の場合でも軍の捜索が隅々まで及んでいたことが見て取れる」と話している。

関東軍は兵員不足想定 制度上不可能だった現地召集を画策

 所在不明の在郷軍人の手配文書が出されたのは、1937年7月7日の盧溝橋事件を発端に日中戦争が始まる半年前。中国全土に抗日運動が広がり、満州国境付近でソ連軍との紛争が増える中、関東軍は兵員不足を想定し、制度上不可能だった現地召集を実現しようと画策していた。

 国文学研究資料館の加藤聖文准教授(日本近現代史)によると、満州に置かれた関東軍は日本国内からの兵員補充で成り立っていたが、36年9月ごろからは、関東軍が直接、満州在郷軍人を召集する方向で陸軍省と検討していた。

 加藤准教授は「兵役法を改正して現地召集が可能になれば、緊急時に応援部隊を待たず柔軟かつ迅速に兵力を確保できる。関東軍が所在不明の在郷軍人を捜索したのは、あらかじめ召集可能な人数を把握しておく必要があったからではないか」と指摘する。

 関東軍は35年から、満州の南側に位置する華北5省を中国国民政府から切り離して支配下に置く「華北分離工作」を本格化。一方でソ連軍とも満州の国境を巡って紛争を繰り返していた。

 特にソ連軍には圧倒的な兵力差をつけられていたため、有事に備えた増員が求められていたという。しかし日中戦争の泥沼化などで議論は先送りされ、終戦間際に実施された満蒙(まんもう)開拓団員の大量動員が事実上の現地召集となった。(共同)