中日新聞記事より

<攻防 共謀罪法案> 治安維持法師範学校生にも
2017/5/20 夕刊
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 犯罪を計画段階で処罰する「共謀罪」の趣旨を盛り込んだ組織犯罪処罰法改正案が衆院法務委員会で可決された。政府は「テロ対策」と強調するが、一般市民が捜査対象となる不安は国会審議で解消されていない。北海道音更(おとふけ)町の松本五郎さん(96)は師範学校生の時、日常生活を絵に描いただけで、治安維持法違反容疑で逮捕された。「また、人の心の中まで取り締まる恐ろしい時代が来るのか」と危ぶむ。
 学生が寄宿舎でレコード鑑賞をしたり、勤労動員中の休憩時間に寝そべって話をしたりする姿を描いた二枚の絵が証拠となり、一九四一年九月、二十歳の時に逮捕された。師範学校五年で美術部長だった。生活をありのままに描き、生き方を考える旭川市師範学校や旧制中学の学生らの活動が、権力の側から「世の中を批判的に見る反抗的な思想を生む」とみなされた。逮捕者は松本さんを含め二十七人に上ったとされる。
 旭川署に連行されたが、取り調べはすぐ始まらず、留置場で一カ月余、放置された。ドブネズミが走り回り、湿った布団にはシラミがうごめいていた。
 心身とも衰弱したころ、取り調べが始まった。特別高等警察特高)の取調官に「共産主義を信じて啓蒙(けいもう)活動をしただろう」と言われ、否定したが「警察をなめる気か」と怒鳴られた。取調官の意に沿うまで何度も書き直しをさせられ、捏造(ねつぞう)された自白調書ができた。
 逮捕から三カ月後、旭川刑務所の思想犯の独房に。いつか分かってくれるという思いは、調べを受けるうちにあきらめた。「言いなりになってでも出たい」と願った。一年後に釈放され、翌年「懲役一年六月、執行猶予三年」の判決を受けた。
 逮捕体験を思い出すのがつらかったことに加え、偏見が怖くて長年、話せなかった。「政府や時代の空気にそぐわないものは徹底的に取り締まられた。人権なんてなかった。共謀罪も、普通の市民の活動や内心まで取り締まることが目的のように感じてならない」と心配する。
 今の日本の向いている方向に危機感を募らせる。「この国は歴史を忘れ、いつの間にか元の道に戻ってしまうのではないか」。松本さんは二十二日、治安維持法で摘発された人らとともに、共謀罪の廃案を求めて東京都内で記者会見する。

 (片山夏子、写真も)
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<攻防 共謀罪法案> 治安維持法、逮捕後に自殺
2017/5/19 朝刊
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 衆院の法務委員会で十九日にも採決される組織犯罪処罰法改正案には、犯罪を計画した疑いの段階で逮捕されかねない「共謀罪」の趣旨が盛り込まれている。「治安維持法の再来。信頼関係や人間そのものを壊してしまう」。戦前、同法の犠牲になった名古屋市出身の女性運動家の遺族は、懸念を募らせる。
 「治安維持法に殺されたのは、熊沢光子(てるこ)。伯母です」。愛知県津島市天王通りの新谷(あらや)陽子さん(65)は、ひと言ひと言を選ぶように話し始めた。十人きょうだいの六女だった母親の、上から二番目の姉。ただ、母は生前、存在すら口に出さなかった。
 「『非国民』と言われて死んで、親戚一同苦労して、タブーになっていたのかな」。人名辞典にも載っている「有名人」の伯母を知ったのは、その死から六十年以上が過ぎた一九九七年。母の葬儀の火葬場で、従兄からそっと教えられた。
 光子は裁判官の娘として一九一一(明治四十四)年に生まれ、現在の名古屋・栄、テレビ塔の近くで育った。県第一高等女学校(現明和高校)卒。上京して共産党に入り、党幹部の男性と一緒に暮らした。
 暗転は、特別高等警察の拷問で作家小林多喜二が亡くなった三三(昭和八)年。同居男性らが特高のスパイと露見し、宮本顕治・元議長らが東京都内のアジトで問い詰める「査問」を行った結果、一人が急死した「スパイ査問事件」が起きた。党は、男性と光子を監禁。結局、事件がきっかけになり、治安維持法違反の疑いで逮捕された。
 名古屋新聞(現中日新聞)は警察発表に基づき、共産党の内輪もめによる「赤色リンチ」とセンセーショナルに報道。逮捕された光子を指し「赤色リンチに躍る赤い女党員」と見出しを掲げるなど、東海地方の各紙も大きく報じた。光子は三五年、刑務所で自ら命を絶った。二十三歳だった。
 この事件で宮本氏らは治安維持法違反と監禁致死などの罪で有罪となり、服役したが、戦後、判決は取り消された。共産党は暴行を否認している。
 名古屋大の平川宗信名誉教授(刑法)は、治安維持法と現代の「共謀罪」法案は、市民の間に際限のない疑心暗鬼を生む側面が似ていると指摘する。「人と人との共謀をつかむ捜査手法は、内部にスパイをつくるか盗聴するかの二つしかない」。法が成立すれば、親しい人すら信じられない世界ができてしまうのが恐ろしい。
 新谷さんは、光子の絶望の原因は、信頼していた同居男性の裏切りにあると感じている。裏切りは、スパイを必要とした当時の悪法が生んだ。「光子さんのような人を絶対、二度と出しちゃいけない」。苦い思いで、共謀罪法案を巡る国会審議の行方を追っている。
 (中野祐紀)
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