ある僧侶への返信

前略
  明治期以降帝国政府により、幕藩体制の僕と化した禅宗各派僧侶集団による帝国打倒徳川幕府復活を目指す内乱のための布教を阻止するため、禅宗各派を根底から堕落させるべく妻帯させる方向にうまーく仕向けられ、戒律を破り帝国政府の性の誘惑に乗っかり妻帯し、結果として世襲制となり出家動機皆無の者、即ち破戒僧侶で占めた似非教団が輪住制をも廃止し、固定定住即ち世襲家業制となり、明治大正昭和の3時代を経て釈迦の弟子、道元禅師の弟子として全く認められない者が、即ち衣に助けられて辛うじて僧侶の格好だけしている、似非僧侶だらけとなり今日に至りました。 
 僧侶の養成ひとつとっても師家として祖師がたに匹敵する力量の境涯にある師家が皆無の状態下であります。己事究明とは全く無縁の、在家生活にのみ浸りきり、意味を全く理解していないお経を暗唱し、形式的に儀礼ごとができるだけの、田舎役者揃いとなった似非僧侶だらけの実情であります。 ハダカになることすら、ただの一度もない者がどうして僧侶と言えましょう。
 福田会と称して御袈裟を縫う会を開いている僧侶を見ても、原点である無一物ゆえに、打ち捨てられた衣類をつぎはぎして一枚の長方形の布地とし、まとったことを忘れ、ひたすら、美生地を用い、おごり高ぶりながら、縫い方を教えてやるとする態度で会を運用する、愚かさぶりが目立ちます。
 釈迦に始まる無一物の、己事究明から無限に乖離した存在が、換言すれば、葬儀会社の下請けとしてお経を歌う葬儀芸者集団としてのみの存在が今日の僧侶集団であるわけですから、ゴルフや高級車や豪華法衣や美食や豪遊に日々ふけるのが常識となり、自己の血縁関係なき僧侶にたいしては、また、僧籍記入年度の前後のみにより主人対奴隷関係を強要するのが実情であるのでもあります。
 そんな狂気の世界に安住してきた者のひとつの事例が東堂であるに過ぎません。

大恩教主である釈迦の無一物の生活、待機説法などとは、無限に離れた詐欺師世界に安住する者などとは、待機説法対象とするだけでよく、そうなれば、怒りも嘆きも感じなくなるのです。

 寺は、檀家の持ち物でもなく、僧侶の持ち物でもなく、仏様の持ち物であると、独白した余語老師の言葉は、末法の今、大いなる意味を持つものであり、仏様の持ち物に縁あって住まいながら、本来の釈迦の弟子ならんとするならば自ずから、日々是好日と楽しく修しながら励めるのではありませんか。                       草々