戦争と仏教

「懺 謝 文」により、真摯に皇国史観と戦争を否定している宗派ならば、それを肯定し、国賊内閣の知恵袋と化して戦争法案や大日本帝国憲法の復活成立をめざし猪突猛進する宗門立大学退職憲法学教授に与えた名誉教授号は、破棄取り消さねば、矛盾もいいとこ、「懺 謝 文」は真っ赤な嘘か?詐欺師の宗派か?と評判がたち檀家信徒は見きりつけますでしょう。



1部分重複、続きです。

    懺 謝 文

われわれ曹洞宗は、明治以後、太平洋戦争終結までの間、東アジアを中心にしたアジア地域において、海外開教の美名のもと、時の政治権力のアジア支配の野望に荷担迎合し、アジア地域の人びとの人権を侵害してきた。

また脱亜入欧の風潮のもと、アジアの人びととその文化を蔑視し、日本の国体と仏教への優越感から、日本の文化を強要し、民族の誇りと尊厳性を損なう行為を行ってきた。

しかも仏教の教義にももとるようなこうした行為を、釈迦牟尼世尊と三国伝灯の歴代祖師の御名のもとに行ってきた。

まことに恥ずべき行為というほか
ない。

われわれは過去の海外伝道の歴史の上で犯してきた重大な過ちを率直に告白し、アジア世界の人びとに対し、心からなる謝罪を行い、懺悔をしたいと思う。

しかし、それはかつて海外伝道に従事した人たちだけの責任ではない。

日本の海外侵略に喝采をおくり、それを正当化してきた宗門全体の責任が問われるべきことはいうまでもない。


さらにまた、曹洞宗が一九八〇年に出版した

曹洞宗海外開教伝道史』

が、過去の過ちに対して反省を欠いたまま発刊され、しかも同書の本文中において過去の過ちを肯定したのみならず、時には美化し賛嘆して表現し、被害を受けたアジア地域の人びとの痛みになんら配慮するところがなかった。

かかる出版が

歴史を語る形で、しかも過去の亡霊のごとき、そして近代日本の汚辱ともいうべき皇国史観を肯定するような視点で執筆し出版したことを恥と感じる。


また同時に、このような書籍の出版が太平洋戦争後三十五年を経てなされたということについても、重大な罪の意識を感じざるをえない。

何故ならばそれは、

宗門が明治以後、ある時は国家に阿諛迎合し、ある時は積極的に国策に荷担して戦争協力を行い、アジアの民衆に塗炭の苦しみを強いてきたという事実について、なんら反省することもなく、その責任すらも感じていなかったということに他ならないからである。

「歴史とは、過去と現在との間の尽きることを知らない対話である」といったのは、歴史家E・H・カーであるが、

遺憾ながらわが宗門はこの対話の努力を怠り、過去の歴史に今を問いかけ、過去の歴史に学びつつ自らの座標軸を糾そうとする姿勢を持つことなく今日に至った。われわれは一九四五年の敗戦の直後に当然なされるべき「戦争責任」への自己批判を怠ったのである。


曹洞宗は、遅きに失した感は免れぬとはいえ、あらためてその怠慢を謝罪し、戦争協力の事実を認め、謝罪を行うものである。

われわれは「戦争責任」の重大性を認識し、アジアの人びとの痛みの上に立って、一九八五年二月以来、『曹洞宗海外開教伝道史』の文言の一々について徹底した読み直しを開始し、同書の随所に「民族差別による差別表現」「国策・皇民化政策荷担の事実への省改なき表現」が見られ、同書が歴史の書として誤った歴史認識によって執筆されているのみならず、抑圧された人びとの人権の視点を欠いており、人権擁護を推進しようとするわが宗門の立場と相矛盾するものであることを確認し、同書を回収し、廃棄処分することとした。


また、われわれはこの書籍の誤った歴史認識と差別表現を指摘したが、それは同書の誤りを指弾するのみでなく、歴史への反省を怠り、戦争責任を回避してきたわが宗門、及びわれわれ全宗門人にこそ向けられるべきことはいうまでもない。

思うに、仏教は、すべての人間が仏子として平等であり、如何なる理由によろうとも他によって毀損されてはならぬ尊厳性を生きるものである、と説く。

しかるにその釈尊の法脈を嗣受することを信仰の帰趨とするわが宗門が、アジアの他の民族を侵略する戦争を聖戦として肯定し、積極的な協力を行った。

特に朝鮮・韓半島においては、日本は王妃暗殺という暴挙を犯し、李朝朝鮮を属国化し、ついには日韓併合により一つの国家と民族を抹殺してしまったのであるが、わが宗門はその先兵となって朝鮮民族のわが国への同化を図り、皇民化政策推進の担い手となった。

人が人として存在する時、人は常に自らの帰属する場所を求めずにおかない。

家族、言語、民族、国家、国土、文化、信仰等、自らが帰属するアイデンティティーを保証されるとき、人は安息を覚える。
アイデンティティーは人間の尊厳性を保証するものなのである。

しかるに皇民化政策は、朝鮮民族の国家を奪い、言語を奪い、創氏改名と称して民族文化に根ざした個人の名前までも奪い
去った。

曹洞宗をはじめとする日本の宗教は、その蛮行を宗教により正当化する役掌を担った。

また、

中国等においては、宗門が侵略下における民衆の宣撫工作を担当し、中には率先して特務機関に接触しスパイ活動を行った僧侶さえいた。

仏教を国策という世法に隷属せしめ、更に、他の民族の尊厳性とアイデンティティーを奪い去るという二重の過ちを犯していたのである。

われわれは誓う。二度と過ちを犯すことはしない、と。


人は、何人といえども、他によって侵されたり、迫害されたりすることは許されない。

人は、かけがえのない存在としてこの地上に存在するものだからである。

それは国家においても、民族においても同じである。

また、人も、国家も、民族も、それ自体で独立した存在として、他の侵犯を拒絶するものであるが、一方、それ自体が、個として独立的に存在し得るものではない。

人も国家も、相互依存的関係の中においてのみ存在し得るものである。

通信や交通の技術が進歩して地球が狭隘化し、政治や経済が国際化した今日、地球は一つの共同体であることを明らかにしてきた。

仏教のいうすべての存在の「縁起」性があらためて確かなものとなってきたのである。

人も、国家も、民族も、それが「縁起」的存在として、他との相互依存性の中に存在するとすれば、他を侵すということは、自らの存在の一部を否定するということである。自らの存在の根拠を侵すということである。

故に、仏教においては、他との共生は必然である。

他との共存こそが自らの生
きる根拠なのである。

自を見つめ、自を律し、他と共に生き、他と共に学ぶ生き方こそ仏教の平和思想なのである。

われわれは過去において、この視座を見失い、仏教と遠く離れた位置にあった。

ある一つの思想が、ある一つの信仰が、たとえいかような美しい装いを凝らし、たとえどのように完ぺきな理論で武装して登場してこようとも、それが他の尊厳性を侵害し、他との共生を拒否するとするならば、われわれはそれに組みしないであろう。

むしろ、そのような思想と信仰を拒否する道を選ぶであろう。
人のいのちの尊厳性は、それらを越えてはるかに厳粛なものだからである。

われわれは、重ねて誓う。二度と同じ過ちを犯さない、と。

そして、過去の日本の圧政に苦しんだアジアの人びとに深く謝罪し、権力に組みして加害者の側に立って開教にのぞんだ曹洞宗の海外伝道の過ちを心より謝罪するものである。

一九九二年十一月二十日

曹洞宗宗務総長
大 竹 明 彦