憲法破壊の手先 師岡康子氏(弁護士)のヘイトスピーチ禁止論

■ 政治
憲法破壊の手先 師岡康子氏(弁護士)のヘイトスピーチ禁止論に対し、怒りを込めて批判する
猪野 亨

北海道新聞2017年5月27日付朝刊に「表現の自由に潜む「差別」」と題して、弁護士の師岡康子氏の見解が掲載されています。

 その論旨は、次のとおりです。

?対策法ができてから「死ね、殺せ」といったデモの表現は減った、しかし、届出が必要ない少人数の街宣は変わらず、ネット上でも変わっていない。対策法は不十分だ。

?欧米では刑罰を科すの比べて日本は遅れている。ヘイトスピーチは大量虐殺に結びくものだ。日本でも関東大震災でも差別意識が暴力に結びついた。

?憲法表現の自由を理由に規制に反対する憲法学者や弁護士は深刻な差別の実態は知らないからだ。沈黙を強いられ、心身を病み、自死に追い込まれる事実を知るべきだ。

?ヘイトスピーチを法規制すれば表現内容を権力が判断するのが危険と濫用されるというが、今でも脅迫や名誉毀損、威力業務妨害など表現内容により規制されている。

?日本国憲法は米国憲法の影響を受けているが、米国の州によっては規制している。

 一読して分かるのは、師岡氏は、弁護士だというのですが、憲法も刑法も全く分かっていないということです。

 ヘイトスピーチの「被害実態」だけを強調して禁止せよ、刑罰を科せと絶叫しているだけだということです。

 ヘイトスピーチによる被害実態についても熟知していようとも日本国憲法の価値を否定する禁止法や刑罰法は断固として反対しなければなりません。

 師岡氏は、「ヘイトスピーチ規制だけを問題にするのは、無意識にせよ差別する自由を守る立場」というのですが、濫用する自由の余地もないところには自由は存在しません。

「「慰安婦は捏造」パネル展を札幌市の施設で開催することの是非 利用を認める市の立場を支持する」 

 師岡氏が比較している脅迫や名誉毀損、威力業務妨害の罪は個々の法益を侵害する犯罪として規定されており、特定の民族などに向けて死ね、殺せというヘイトスピーチとは根本的に異なります。個別の法益侵害に向けられた言動が禁止されたり、刑罰が科せられるのは当然のことであり、他方で、個別の法益侵害のない表現(言論)だけで処罰されるというのは、全く次元の異なる問題です。

 法曹たるももの、被害実態がこうだからというだけで原理原則、憲法の価値を歪めて良いということにはならない、これこそが法曹としての考え方の基本です。師岡氏は、この原則がまるで理解できていません。

 特に威力業務妨害も歴史を遡れば、組合活動(運動)弾圧のために利用されてきたという実態があります。使用者(資本家)側の営業の自由が妨害されているという立論ですが、憲法上、保障された労働組合の活動がいとも簡単に権力が介入してくるのであり、本来的に濫用のない線引きなどあり得ないと言わざるを得ません。

 その発想からいえば、共謀罪にも反対できないでしょう。むしろヘイトスピーチの禁止における濫用との線引きは、共謀罪と対比されるような困難さが伴う(要は無理ということ)という問題であり、比較対象として威力業務妨害罪を持ち出すのは失当ですし、あまりにセンスがないと言わざるを得ません。

 しかも、禁止法や刑罰に反対している憲法学者や弁護士がヘイトスピーチを容認せよ、その内容が素晴らしいなどと言っているわけでもないのに、「表現の自由を盾に、差別に冷淡、鈍感であってはならない」などというのは言い掛かりにもほどがあり、怒りが込み上げるものです。

 要は、自分は闘っているのだ、それ以外の連中は黙認どころか、表現の自由を理由に助長しているんだというもので、思い上がりも甚だしく、許しがたいものです。

 米国がどうこういう議論も全く説得力がありませんし、差別意識が暴力に直結するという論調に至っては、ヘイトスピーチの禁止と刑罰にどのような関連性があるのかというレベルのものです。つまり、禁止や刑罰は、外部に現れる差別言動は取り締まれても、個々人の差別意識までどうこうできるものではないのです。

 ドイツにおいて未だにネオナチ思想が蔓延っていることをみれば分かることです。

ヘイトスピーチを禁止したり罰則を科すということがいかに愚かなことか ナチス、西ドイツをみれば一目瞭然」

ヘイトスピーチを禁止せよ、処罰せよは、ナチスの発想だ


 師岡氏のヘイトスピーチを禁止し刑罰を科せなどというのは、まさにナチスと同じ発想であり、日本国憲法を破壊するための言動でしかありません。

■ 政治
教育の無償化について
船田元

憲法26条の教育を受ける権利では「全て国民は、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける」権利があると規定している。自民党においても「国は、教育が国の未来を切り拓く上で欠くことのできないものであることに鑑み、教育環境の整備に務めなければならない」とする考え方を、従来から有してきたところだ。
しかしながら、昨今の所得格差の拡大などの経済的制約によって、残念ながらこの権利が十分には保障されないケースが増えて来ている。「能力に応じて」や「ひとしく」と並行して、「経済的理由を問わず」というような文言を憲法の規定に盛り込むことは、十分に検討に値すると思う。
また26条2項は「義務教育は無償とする」と規定しており、それを実現する手段としての授業料無償に加え、同項の精神をより広く実現するものとして、教科書無償化が従来から行われてきた。しかし、その他の教材費や給食費、修学旅行費などは自己負担であること、さらには学習塾への支払いなどを加味すると、各家庭の教育費は、義務教育段階でも大きな負担であると言る。「義務教育の無償」という憲法の規定を名実ともに実現するには、更なる財源措置が求められることは、言うまでもない。
さらに教育の無償化を進める際、どの教育段階を優先すべきか、その財源を何処に求めるべきかについては、自民党内でも活発な議論が続いている。教育段階では、有力な少子化対策の一つとして幼児教育を優先すべきという主張と、給付型奨学金の創設とその拡大により、高等教育の無償化を優先すべきという主張という2つの流れがある。
また財源問題では、教育の無償化を目的とした新たな国債の発行や、公的年金などの社会保険料に上乗せして保険料を集め、子育て世帯への給付に充てること、あるいは既存税制に上乗せすることなどだ。今後はこれらの意見を集約して、自民党として一定の方向性を示すことが求められる。
なお教育の無償化の実現のためには、憲法改正は必要なく、法律で済むことだとの指摘もあるが、むしろ無償化を明記することにより、その後の政府に実現を促す大きな力になると期待される。