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正義の人、山崎兵八
丹2012/01/09 23:59
昭和時代中期の冤罪事件(および冤罪の疑いが濃厚な事件)を調べると、
静岡県に集中して発生していることに気付かされます。

1950年に近所の主婦を殺害したとされた男性が
差し戻し審で無罪となった「小島事件」。

1954年に幼女を強姦殺害したとされ、死刑判決を受けた男性が
35年後、再審で無罪を勝ち取った「島田事件」。

1966年に起きた一家殺人事件で元ボクサーが死刑判決を受けた「袴田事件」。
先頃、血液の再鑑定でDNA不一致が指摘されたことで改めて注目されていますね。

以下に引用する「二俣事件」と「幸浦事件」も、冤罪でした。

「死刑が無罪の二俣事件
[昭和]25年1月6日夜、静岡県磐田郡二俣町で大橋一郎さん一家四人が殺され、
現金などが奪われ、同町Sが逮捕されて犯行を自供、静岡地裁浜松支部
12月死刑の判決があった。

被告側は東京高裁に控訴したが、26年9月公訴棄却、
さらに「自白は拷問によるもの」として上告した。

最高裁第二小法廷(裁判長霜山精一)は28年11月27日、
「自白の真実性は疑わしい」との理由で原審を破棄、静岡地裁に差戻した。
これは実質的には事実誤認を、上告理由に採用したものとして注目された。

静岡地裁の審理の結果、31年9月22日、証拠不十分として無罪の言渡しがあり、
死刑が無罪となった珍しい例となった。

「幸浦事件」
第二の二俣事件といわれ、23年11月29日夜、静岡県磐田郡幸浦村の
アメ製造業荻原幸太郎さん一家四人が絞殺され、現金などを奪われ、
死体は付近の砂浜に埋められた。
容疑者として同村Kほか二名が検挙され、静岡地裁浜松支部で、
25年4月いずれも死刑判決をうけた。

東京高裁も第一審判決を支持して公訴棄却したが、被告側は
「警察の拷問で虚偽の自白をした」と主張。
最高裁に上告した。

最高裁第一小法廷(裁判長真野毅)は、32年2月14日、
強制、拷問の自白の疑いがあると被告側の主張を採用、
原判決を破棄して東京高裁に差戻した。

二俣、幸浦両事件とも、ほとんど同一警察官が、捜査取り調べに当たっていたことは、
問題の一つのカギともみられている。



「二俣、幸浦両事件とも、ほとんど同一警察官が、捜査取り調べに当たっていた」

この警察官とは紅林麻雄刑事のことです。
彼はとても勘が良い優秀な警察官として一目置かれていました。

“犯人”のアリバイが出てくると、紅林刑事はそのアリバイが“犯人”の小賢しい罠で捏造されたものだと
ピタリと言い当てるのです。
“犯人”は紅林刑事の推理通りに自白します。

多くの事件で“犯人”を割り出し、数々の表彰を受けた名刑事でした。


さて、1950年の年明け早々、静岡県磐田郡二俣町(現在の浜松市天竜区二俣町)で、
残酷で奇妙な殺人事件が起きます。

夜中、民家に何者かが忍び込み、夫婦と子供2人を殺害したのです。
被害者夫妻には他にも子供が何人かいたのですが、隣室に寝ていた祖母とともに熟睡しており、
朝になるまで惨劇に気付きませんでした。

争っている時に壊れたと思われる時計が指していた時刻と、司法解剖の結果から、
犯行時刻は午後11時頃と推測されました。

現場から犯人の指紋と足跡が見つかりましたが、
犯人の目撃証言といえば、生き残った子供が寝ぼけ眼で見た人影だけ。

殺人事件に不慣れな二俣署だけの手には負えません。

そこで、あの名刑事・紅林氏が投入されます。
そして、この事件においても彼の超人的な推理能力は発揮されるのでした。


紅林刑事が怪しいと睨んだのは、以前窃盗を働いたことのある18歳のS少年でした。
さっそく殺人と無関係の窃盗容疑でS少年を逮捕し、取り調べを行うことにしました。

二俣署の山崎兵八巡査は、S少年のアリバイを調べるように命じられます。
すると、犯行時刻とされた午後11時頃、S少年にアリバイがあることが判明しました。

しかし、紅林刑事はそのアリバイが嘘だと見破ります。

― 実は、Sが4人を殺害したのは午後9時頃だった。
  Sは、愛読していた江戸川乱歩の小説からトリックを拝借したのだ。
  時計の針を11時まで進めて止め、午後11時に自身のアリバイを作ったのだ。 ―

ところが、S少年はなかなか認めようとしません。
紅林刑事の推理に間違いなどあるはずがないのに。

そこで、紅林刑事はS少年を警察署裏手の土蔵に連れて行きました。
外に声や悲鳴が漏れない土蔵で、日夜S少年に拷問を加えるよう、部下に命じたのです。

数日後、S少年は、紅林刑事が言い当てた通りの犯行を“自白”しました。

翌日の新聞とラジオは、残忍な殺人少年Sを実名で公表し、
事件は無事解決、紅林刑事の功がまた一つ増えたのでした。



もうここまで書けばお分かりでしょう。
紅林刑事は推理の天才ではなく、拷問と自白強要の天才だったのです。

紅林刑事に怪しいと疑われた人は、彼が先入観を膨らませて書いたシナリオ通りに
やってもいない犯罪行為を“自白”するまで拷問を受けていました。

ある強姦殺人事件では単独犯と推定されているにもかかわらず、
「私が殺しました」と複数の容疑者が“自白”する有様でした。

二俣事件においても、Sさんの前に別の人が“自白”寸前まで行ったのですが、
幸いにして釈放されています。

(余談1)
戦前戦中に形式的な法治主義によって拷問が横行していた事実を省みて、
1946年公布の日本国憲法は、アメリカの判例で発達した人身保護規定を
31条から40条まで詳細に明文化しました。
38条2項は、拷問による自白の証拠能力を否定しています。

刑事訴訟法アメリカ型の実体的デュープロセスを採り入れたものに改正され、
1949年に施行されています。

刑事事件において「実体的デュープロセス」とは、超簡単に言うと、
「適正な法によらなければ人を処罰することはできない」ということです。

たとえ本当に誰かが誰かを殺害したことが明らかだとしても、その事実を見つけ出すまでの
プロセスが「適正な法」から逸脱していた場合、有罪にできないという法理です。

法治主義を形式的に適用すると、国会が拷問を可とする法律を制定すれば
警察は合法的に拷問できるわけですが、法の支配を重んじる英米法の下では
そのような「適正の法」から外れた法律の制定は許されません。

刑事訴訟法の施行から1年しか経っていない過渡期に、二俣事件は起きました。
戦前とさほど変わらない意識の警察官も多かったのでしょう。

(余談2)
今の憲法アメリカが作ったものだからけしからん!
とか、
今の憲法は人権を保護しすぎていてけしからん!
とか言う人がたまにいますが・・・
突然逮捕されて拷問を受けて、身に覚えのない殺人事件の犯人として死刑になりたい
というマゾな願望でもあるんですか?



1950年3月、S少年は起訴され、年内にも死刑判決を受けると見られていました。

ところが、ここに思わぬ横やりが入ります。
S少年のアリバイを調べた山崎兵八巡査が、取り調べの実態を新聞で暴露したのです。

一現職巡査が警察内部の違法行為をマスコミに漏らすなど前代未聞でした。
目前に迫っていた判決言い渡しは急遽延期されます。

二俣事件の捜査に疑問を抱いていた警察関係者は、山崎巡査だけではありません。
元刑事として二俣署から捜査協力を依頼されていた小池清松氏も、
S少年が犯人ではないことを突き止めていました。

山崎氏と小池氏は法廷で証言しました。
S少年にアリバイがあること、自白が強要されたものであること。

しかし、静岡地方裁判所浜松支部は、1950年12月27日、
山崎氏と小池氏の証言を重んじることなく、S被告に死刑の判決を言い渡します。

驚愕すべきことはこれだけではありません。

この判決日、山崎巡査は偽証罪で逮捕されてしまいます。前坂俊之 「冤罪と誤判」(田畑書店 1982年)を参照。
検察官が、検察に不利な証言の信憑性を貶めようと、
証人に対して偽証罪の疑いをかけることは珍しくありません。
八海事件や甲山事件が有名ですが、2006年にもありました。
彼は、拘置所で精神異常と診断され、不起訴処分で釈放されたものの、
免職処分を受けてしまったのです。

・・・なんだか救われない話ですね。

罪のない者が死刑判決を受け、罪を犯した者が誰にも知られず自由に闊歩する。
濡れ衣を着せた者が手柄を称えられ、告発した者が追放される。
似たようなことは社会のあちこちで起きていますが。


さて、この後、関係者はどうなったのでしょうか?

S少年は最高裁まで争いました。

最高裁は物的証拠からSさんが犯人であることは疑わしいとして、
原審を破棄し、地裁に差戻しました。
こうして、最初に引用した文中にあるように、S少年は無罪を勝ち取ったのです。


紅林刑事はというと・・・・

幸浦、二俣、小島事件の失敗で、彼はまたたく間に栄光の座から転げ落ちる。
32年2月、最高裁二俣事件に続き幸浦事件でも有罪判決を破棄、差し戻したことから、
批判は「拷問捜査」の中心、紅林に向けられた。
外部からの批判に耐え切れなくなった県警は、御殿場署次長に昇進していた紅林警部を
吉原署駅前巡査部長派出所町に転出させた。
実質的な二階級降格。駅前での交通整理が主な仕事である。
勤務を終えると近くのおでん屋に立ち寄り、好きな日本酒で憂さを晴らす毎日となった。
「名刑事」から一転、「昭和の拷問王」として糾弾された紅林は、週刊誌に弁明の手記を寄せた。


その手記では、山崎巡査の告発を「噴飯物のインネン付け」と一蹴し、こう書いています。

「おまえ、お父さんお母さんに会いたいだろう」
こう一言やさしくいってやると、ワッと泣きくずれて、
「刑事さん、助けて下さい。頼みは刑事さんだけなのです。そうです、わたしが殺しました」
と一切の泥をはき出すのが大ていの犯人だ。
乳房があったら犯人を抱きしめて、一緒に罪のおそろしさに
泣いてやりたいくらいなのが刑事であって、その刑事たちが、
なんで殴るけるなどということをするだろうか・・・


紅林警部は1963年7月末日付けで警察を辞め、
わずか1ヶ月半後の9月16日、脳出血で亡くなりました。

(余談3)
ことさら紅林氏個人を責めることは、彼がやったとされることと同じ過ちであり、
また無意味なので、やめておきたいと思います。

彼個人を責めるより組織のあり方、ひいては
自白の強要ができないようなシステムを作ることの方が
意味があるように思えます。

警察の取り調べも昔に比べれば良くなってはいるのでしょうが、
志布志事件など今でも強引な取り調べが後を絶ちません。たとえばhttp://www.youtube.com/watch?v=wpyYSUsSFtg

特に死刑制度を維持するならば、取り調べの全面可視化は必要でしょう。
警察・検察は「可視化されると容疑者との信頼関係が失われる」と主張しますが、
実際には単に今までの脅迫的取り調べが通用しなくなることを恐れているだけです。

自供に頼らず容易に犯人を特定できるようにするために、
プライバシーに配慮しながら防犯カメラの整備を進めることも
検討すべきでしょう。



さて、警察から追われた山崎兵八氏はどうなったのでしょうか?
彼は職を転々としていました。

1983年10月21日付『朝日新聞』「冤罪の系譜 (12)」によると、
愛知県のゴルフ場でボイラー技師をしているとのことでした。

本人は故郷に戻りたいと願っているが、奥さんが帰りたがらないそうで、
元巡査の勇気ある告発が家族の人生にまで影を落としていることが偲ばれます。


それにしても、悲しかったのは、山崎元巡査の内部告発を載せた新聞記者が
退職後の世話はすると約束しておきながら、何の面倒も見てはくれなかった あくまで山崎氏側の一方的意見ですので、新聞社側の言い分も聞きたいところです。
ということです。


残念ながら、内部告発者が不遇の人生を歩むということは
稀なことではありません。

つづく