森友学園は詐欺犯罪を犯したのですから、サッサと捜査しなければなり

森友学園、小学校設置の認可申請取り下げ

 大阪府によると、学校法人森友学園は10日、同府豊中市に予定していた小学校設置の認可申請を取り下げると伝えた。大阪府教育庁の関係者によると、森友学園籠池泰典理事長が10日、府に同学園の理事長を退任する意向を伝えた。


■ 政治
安倍晋三記念小学校が潰れるのは良いが・・・
町村泰貴

安倍晋三記念小学校と銘打って寄付を集めていた森友学園の小学校が、ついに開校できないこととなった。
幼稚園児に教育勅語を暗唱させるとか、安倍晋三夫人の昭恵さんを招いて安倍総理への感謝を子供に述べさせるなど、とにかく安倍晋三首相へのすり寄りが目立つところだった。
安倍氏の側もそれに応えて、安倍首相自身も籠池理事長の教育理念を持ち上げてみたり、夫人が何度も訪れ、名誉校長にも就任し、ウェブページ上に挨拶を載せていた。
しかし8億円相当と鑑定される土地を、他の学校には6億円くらいで払い下げするのを安すぎると断っておきながら、森友学園には1億円少々で売却し、しかもその1億円少々も補助金等々で国等が負担して、結局タダ同然で土地を入手したのではないか、そこに政治的な圧力なり思惑なりがあったのではないかという疑惑が浮上した。
それからというもの、安倍晋三首相は手のひらを返したように籠池理事長の人格にケチをつけるなどし始めて、しかも安倍昭恵さんに至ってはこの学園の教育理念を褒め称えるスピーチをしておきながら、名誉校長は場の雰囲気で断りきれなかったとかいいだし、辞任してウェブページの挨拶も非公開にするなど、森友学園と距離を置きだした。
それからは、堰を切ったようなマスコミ報道の中で、色々と後ろ暗いことが判明し、特に決定打となったのではないかと思われるのが、補助金を沢山もらうために建設費用を26億円としつつ、小学校認可を得るために建設費用を7億円として、その間の15億円とするものもあるという複数の工事契約書の存在だ。
補助金の申請に虚偽があれば返還を、などと国はぬるいことを言っているが、虚偽の契約書を作成して補助金を申請し、給付を受ければ、詐欺の既遂だ。返して済む問題ではない。

そんな中で、民事法的にも気になるのが、安倍晋三記念小学校を作るという名目で集めた寄付の行方である。この寄付は、二重に問題があって、寄付金返還義務が生じるのではないかという点が気になる。
寄付というのは、贈与契約であるので、一般の契約の成立に関わる法律行為論が適用になる。
日本民法は、法律行為の要素に錯誤があれば、その契約は無効であり、契約に基づいて引き渡した財産があれば不当利得として返還義務・請求権が生じる。
また、法律行為が詐欺によってされた場合には、その法律行為を取り消すことができ、取り消されれば同様に不当利得返還義務・請求権が生じる。

そもそも安倍晋三記念小学校と銘打った寄付募集に応じたのであるから、安倍晋三記念というのが取り消された以上、それは詐欺または錯誤を理由として返還請求権が生じそうに思うところであった。
この点は契約の要素なのか、それとも動機にとどまるものなのか、周辺事情なのか、疑問の余地はあった。あるいは、カルト的な要素もあるので、板まんだら事件をちょっと想起するところはある。もちろん司法権の限界という話になるわけでは全くないが。
ところが小学校がそもそも建設されないというのであれば、寄付という贈与契約の前提を欠くことは明らかだ。
これを理論的にどう説明するかは色々あって、契約の目的不到達とか、原因 cause の不存在とか言われるのであろうが、解釈論的には錯誤、あるいは事情変更の原則というあたりになろうか。いずれにせよ、契約の無効と不当利得返還義務・請求権が生じることになる。
もちろん一連の過程で重要なことは、ここではない。以下のような疑惑が残されている。忘れてはならない。
安倍晋三記念などと銘打って現政権に擦り寄っていたこととタダ同然で土地を手に入れていたこととの関係がどうだったのか。
・同じように安倍氏の友人が公有地をタダで入手していたこととの関係。
・それらも含めて、日本会議に関係する人たちがこうした利益共同体を形成しているのではないかという疑惑。
森友学園 については、その塚本幼稚園が子供達を虐待していたのではないか。
・そして子供達に教育勅語を暗唱させることに象徴される塚本幼稚園の教育方針は、安倍昭恵さんがいうように優れたものと評価できるのかどうか。

■ ライフ
教育勅語礼賛」の気持ち悪さ
古谷経衡

・「昔はよかった」という妄想
森友学園を巡る一連の騒動でにわかに注目されだした「教育勅語」。同学園が運営する大阪市内の塚本幼稚園では、「先人から伝承された日本人としての礼節を尊び、それに裏打ちされた愛国心と誇りを育て…」としたうえで、その教育内容に「毎朝の朝礼において、教育勅語の朗唱、国歌“君が代”を斉唱します」と明確に謳っている。
くしくも3月8日、稲田朋美防衛大臣参議院予算委員会で、
教育勅語の精神である親孝行など、核の部分は取り戻すべきだと考えており、道義国家を目指すべきだという考えに変わりはない。(中略)教育勅語の精神である親孝行や、友だちを大切にすることなど、核の部分は今も大切なものとして維持しており、そこは取り戻すべきだと考えている
出典:NHK NEWS WEB、強調引用者
などと、教育勅語礼賛を隠さない。森友疑獄とも呼べる一連の疑惑と、同学園の教育内容への是非は別問題としてとらえるべきであるが、同学園や稲田大臣が筆頭のように教育勅語への礼賛は、この国の保守・右派界隈にまるで「常識」というぐらい普遍的に見受けられる現象である。
いわく「教育勅語の復活により現代社会の道徳堕落の乱れを正す」云々。保守系の集会や講演会に行けば、二言目には「あるべき道徳社会の模範」として必ず教育勅語の存在が引き合いに出されるのだ。
この保守・右派界隈に頻出する「教育勅語礼賛」へ、私が感ずる強烈な気持ち悪さというか、違和感とは、次の二点である。
1)教育勅語が存在した時代には、現代社会よりも高い道徳観が存在していたという思い込み
=つまり前述稲田大臣の発言部分の「そこ(道徳観)は取り戻す」という言葉に象徴されるように、教育勅語が存在した時代には高い道徳観が存在したが、現在は失われてしまっており、よって教育勅語を筆頭とした道徳観は「取り戻すべき存在」として認識されているということである。
2)教育勅語を礼賛したり、復活したりすることを勧奨し、高い道徳観を至高のものと説く人物に限って、道徳的に退廃した私生活を送っているということ
教育勅語が示す精神、例えば父母への孝行、兄弟は仲良くし、夫婦は互いに調和しあい協力し合って、慎みの精神を持ち、尊法精神の涵養すべしなど(これ自体は至極真っ当な道徳観だ)を至高のものであり、現代はそれが失われていると嘆き、よって教育勅語の復活が重要だと説く人間ほど、夫婦愛も尊法精神もない、ということである。
現代日本は道徳的に退廃している、という妄想
まず、1)の観点から見ていきたい。果たして教育勅語の存在した時代は、教育勅語の内容が示す通り、道徳的に高い時代だったのだろうか?
この国の保守・右派界隈は、教育勅語が存在した戦前日本を、教育勅語の内容が示すままに、なにか高い道徳的価値観を保った美的な社会であると思い込んでいる節がある。それは現在、保守派・右派とされる文化人らの著作を少し紐解くだけで明瞭としてくる。例えばその筆頭は、保守言論界の重鎮と目される櫻井よしこ氏の著書には、次のように教育勅語とそれが存在した時代を手放しで肯定している。
教育勅語が)「朕惟フニ」で始まるために今では”悪しき帝国主義”の元凶のようにされ、否定されがちだが、そこに書かれているのは兄弟愛、夫婦、友人との人間関係の基本から、人を愛すること、国の法律を守ることまでを「十二の徳目」として列挙した真っ当な内容だ。現代の日本人が忘れてしまっているこの素晴らしい心得はかつての日本人にとっては当然の価値観だった。だからこそ、明治政府はこうした事柄を国民教育の基礎と位置づけ、日本国の姿を伝統のまま守ろうとしたのだ。

出典:『気高く、強く、美しくあれ 日本の繁栄は憲法改正から始まる』PHP文庫、括弧内・強調引用者
強調部分で顕著なように、どうも櫻井氏は教育勅語に書かれている内容そのものを「戦前日本の真の姿」と思っているようである。そして教育勅語が失われ、新たに戦後出来た教育基本法を、
教育勅語明治憲法は、対の形で日本国の土台を形成していた。そして現行憲法において教育勅語の役割を果たすのは、教育基本法のはずだ。しかし、教育基本法は、かつて教育勅語が国民に道理や道徳を教え導いたような役割を果たしてきただろうか。明らかに否である。
出典:前掲書
と痛烈に批判したうえで、「宗教心も道徳心も消え去ったかのような現在の日本で、宗教心の育成、小さな存在としての人間を超えた大摂理への畏敬の念を養うことがどれ程大切かは、今更言うまでもない」(2016年5月)と自身の週刊誌上のコラムにて嘆き、現行の教育基本法の時代=現代の道徳観の低下を憂い、教育勅語の時代を「取り戻すべき至高の道徳の時代」であるかのように定義している。この世界観は、冒頭に登場した稲田防衛大臣の考え方と類似しているといってよい。
教育勅語の時代は現代よりも不道徳?
しかしながら、教育勅語の時代は、教育勅語に書かれているのと真逆の、不道徳の時代であった。詳細は名著『戦前の少年犯罪』(管賀江留郎著 築地書館)の中に縷々描かれているが、櫻井氏が言う「現代の日本人が忘れてしまっているこの素晴らしい心得はかつての日本人にとっては当然の価値観だった」はずの時代に、読むもおぞましい不道徳な蛮行が行われていた。しかも教育勅語を激しく訓話されていたはずの青少年の手によって。以下、同書より重要事件を3つ引用する。
1)1934年3月15日 20歳の真面目な長男が何人殺せるか試すために一家皆殺し
奈良県北葛飾郡の農家で深夜二時、長男が就寝中の家族五人の頭を斧で殴り、母親、二男、長女、三男を殺害、父親を重体とした。すぐに隣家に押し入り、就寝中の長女の頭を斧で殴り、逃げようとするところを肩と足を切って重傷を負わせ母親にも切りつけたが斧を奪われ逃走、百メートル離れた線路で列車に飛び込み自殺した。
出典:前掲書、年齢表示は引用者が省略した
2)1945年4月17日 17歳が一家五人を惨殺
長野県下伊那郡の農家で、三男が父親、母親、四男、二女、三女を殺害、三キロ離れた山林で猟銃自殺した。前日に近所の家から米を盗んで両親に叱られており、就寝中の両親の顔や頭をまずカナヅチで殴り、カナヅチの柄が折れると斧でめった打ちにしたもの。
出典:前掲書、同
これのどこが「現代の日本人が忘れてしまっているこの素晴らしい心得はかつての日本人にとっては当然の価値観」の時代だというのだろうか?親孝行どころか、親を含めて一家惨殺。現代なら数週間も全国ニュースで取り上げられてもおかしくはない大事件である。ちなみにかの有名な津山三十人殺し(津山事件)はこれとは別に1938年に起こっている。
3)1933年7月9日 女学校3年生らの桃色遊戯グループ「小鳥組」
東京市四谷区で夜十時過ぎ、裁縫女学校三年生と無線電話学校一年のカップルが、簡易旅館に入るところを警官に見つかり逮捕された。この女学校の三年生七、八人は四月に「小鳥組」を結成、「現代女性はすべからく異性と交際して、時代に遅れぬ良妻賢母を心がけねばならぬ」という誓いの下、放課後に新宿の喫茶店などで異性を紹介しあい、またお互いに相手を交換までしていた。
出典:前掲書、同
教育勅語で道徳を叩き込まれていたはずの当時の青少年が、「良妻賢母」を大義としてスワッピング・サークル然とした「桃色遊戯」を楽しんでいた事実を、いかように解釈すればいいのだ。