0015…満蒙開拓団

証言 それぞれの記憶 満蒙開拓平和記念館 中島多鶴 さん…
2014/09/15 11:22




中島多鶴 さん

  生年月日

1925(大正14)年7月

開拓団名

泰阜村開拓団

引き揚げ・帰国

1946(昭和21)年8月

  終戦も知らずに


8月9日にソ連が入ってきたでしょう。

だから開拓団にいることはできないもんで、

避難命令が12日にでたんだけど。

その前

8月10日の日に

召集令状

17歳から45歳まで

みんな行っちゃったの。

うちの父もそうだった。

43歳だったもんでね。

元気な男の人はみんないなかったから困っちゃったの

難所難所でね。

途中で日本兵に遭ったの。

200名も来た。

「俺たちはこれから戦争に行かなきゃならん」

って言うの。

終戦を知らんもんで。

私たちも知らないんだよ

終戦なんて

必死になって兵隊の後をついて山へ入って行ったの

湿地ばっかりで

膝までつかるような所で

足はもう履き物もないの

それでも

必死で1週間くらい歩いて行ったら

牡丹江があって

大きな川でね

幅が200mもあるの

それを渡った向こう側はすごい原生林なの

人も住めない、獣がいるような山だって

兵隊が言うんだよ

この山を越えなければ向こうに出れないって

一難去ってまた一難だ

そうしとるうちに

もう行けないって

川に子どもを捨てちゃう人がでてきた

もう、どうしようもないもんで、子どもを流したんです

私も7人くらいまで流れていくのを見たんだけど、

止めてやることもできん

助けてやることもできない


孤児400名を引率して

瀋陽で戦争孤児がいっぱいいるから

親と別れた子どもがあちこちの収容所にいっぱいいるから

その子どもを連れてコロ島まで行ってくれって

言われたの

収容所に行ってみたら

もう骨と皮ばっかりのような子どもが寝てるじゃないの

こんな子どもを預かって

もしものことがあったらどうしようって言ったら

ここにいたって、毎日死んでいくんだからそれはしょうがないって言われた

それで子どもを兵隊がトラックで列車に運んでね

400人っていうのはなんと大勢の子どもだ

それも10歳以下の子どもばっかり。

乾パンを1袋しかくれんの
1週間分で

それで水分だけは摂らせるようにってドラム缶にお水をドサッと汲んできて列車に乗せて

子どもたちに

「お水を飲みなさいよ、お水を飲めれば早く日本に帰れるでな」

って言ってな

それでも亡くなった子どもが大勢いましたけど

そうやって1週間でコロ島に着いたの

そしたらアメリカの兵隊が迎えに出てくれて

また収容所に入れてくれてな

8月初め頃だったかな

特別に、日本と戦争をした(アメリカの)軍艦が来たの

大きな船が来てね

それに乗せてくれたの

その時は子どもも100人くらいは死んでたね

それで3日くらいで博多に着いたの

厚生省の人や日赤の看護婦さんたちも何人もいてね

病気の子どもを担架で運んでくれたりして

それで私も検疫を受けて、子どもと別れたんですけど

証言 それぞれの記憶 満蒙開拓平和記念館 久保田 諌 さん…
2014/09/15 12:31



久保田 諌 さん

 生年月日

1930(昭和5)年1月

開拓団名

  河野村開拓団


引き揚げ・帰国

1948(昭和23)年7月

  女達の集団自決

とうもろこし畑の間から引っ張り出されてな

現地の若者たち数人に

持っとるこん棒で思いっきり暴力ふるわれて。

結局団長も男だから引っ張り出されてすごく暴力ふるわれたわけだ

それで虫の息になっちゃった

もう年寄りだから体力がないし

「もう俺はダメだ、くるしい、早く楽にしてくれ。もうダメだ、ダメだ」

って言い出して。

それで幹部の奥さん達が話し合って、仕方ない、結局団長の息の根をとめてやるっていうことで話がまとまって。

首を絞めて。

「団長さん、さよなら」

っちゅうわけで。


日本人も終わりか、いよいよ戦争に負けたことのない日本が負けて、もうこの場の人たちが終わりっていうより日本が終わりっちゅうことを考えたね

続けておばさんたちが我が子の首を絞めだしたんです

このまま逃げたってどこまで逃げられるか分からんで、満人におもちゃにされてその挙げ句に殺されるよりはもう死んでしまおうと
潔く逝きましょうという気持ちがみんな働いて。

「久保田さん、何やってんの。早く手伝ってくれないとまた暴力ふるわれるし、夜が開けちゃうから」っておしかりを受けて・・・

一生懸命、子どもを殺すお手伝いをしたわけよね。

みんなお互いに子どもの首を絞めるんだが、小さい子どもは間もなく息が止まっちゃうけど、大きくなるにしたがって抵抗しちゃうわけよね。

「日本が負けて、お父さん達は戦死しちゃったんだからお父さんのところへ行くんだよ」

「はい」

って手を合わせても

苦しいから自然に抵抗しちゃうわけよな。

この繰り返し。


それじゃあ子どもが苦しんで可哀想だっちゅうわけで紐を結んじゃって、その間にとうもろこしの茎を2本はさんで、それをこじて(捻って)いくと息ができんから、うなだれて死んでいっちゃうんだけどな。


石で額をなぐりあう


兄弟をね、畑の中ではあるが頭を並べて、その横にお母さんが横たわって、今度は私を頼むにって、なくなっていく。

そういうふうにして

最後に私ともう1人の男の人、2人残っちゃったんな

 「俺、先に頼むわ」

ってお互いに言い合ってみたけど、一緒に死ぬことを考えようっちゅうことになってね。

石で額を殴りあった。

相手の肩に左手を置いて、右手で殴りあった。

何度も殴り合ってできたのがこの傷なんだけど。

そうしたら、でれでれでれでれ生ぬるい血が流れ出して。

これで大丈夫(死ねる)だろうって、

低い方を頭にして2人で横たわって。


何時間たったかわからんのだけど、スコールが来て、2人とも気がついちゃったわけね。

立ち上がることができんから

見回すと

辺りは

屍の山でなくて海っちゅうか

73人の死体が

転がっているわけね。