信仰の自由を無視する自治会組織があります

日本国憲法では

第二十条  信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

○2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

○3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

と、規定し、大日本帝国時代の臣民に対する国家神道強制から、全面廃止へと一大転換いたしています。

戦後70年を経た今日、準公的組織である自治会が、神社神道の収穫祭の際、山車を繰り出し練り歩く際の山車建造維持管理運営につきまして、「祭りに行う余興のように社会生活におけるレクリエーション的な行事は多くの地域でみられる習俗的・伝統的遺産ととしての行事と同様にその行事を通じ住民が郷土感にひたり、年に一度の娯楽を求め、共通の連帯意識を育むことが大きな要素であって、これに自治会が参加することは差し支えないものである」として、地方公共団体が、神社のミニチュア版である山車の建造ならびに維持管理を、当該神社氏子だけでなく、当該神社の所在する町の住民全世帯が信仰の如何を問わずに連帯して、自治会として自治会費の中から支出してかまいませんと、地区連合自治会長会議において、述べたので、

日本国憲法第20条の

「○2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

○3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」

第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

に、抵触しないので、神社の所在する町の住民全世帯は、各世帯の信仰の如何を問わずに、神社のミニチュア版である山車の新規建造をこれよりするので、会議に出席してください。

いずれにせよ、多数決で決定し建造と決定された場合は、建造費を信仰の如何を問わずに、全世帯で均等に割り、四年間で支払い完了するようにします。

との趣旨の内容の区ごとの集会の開催を来年1月にすると、開催日時を入れた自治会長名義で作成された回覧状を廻しました。

日本国憲法第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。

○2  何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。

○3  国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

第89条 公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。

この条文のすべてを無視、否定し、日本国では、国籍、人種、信仰の如何を問わずに、住する町に居住する者はその世帯ごとに、その町に所在する神社の収穫祭祭典においては、山車の建造維持管理運営を当該町の自治会としてするので、自治会費の一部として、支払いの義務がある。以上よく理解し意義を唱えてはいけません。というのが、現在の自治会執行部の揺るぎなき決意であるわけです。

さて、山車の新造の可否を問う区毎集会にて多数決で決めるから、新造で決まったら従いなさい。との、町自治会三役ならびに顧問会議の決定は、その根拠とするところは、

(地方公共団体がそうしてよろしいと、お墨付きをくださった、「祭りに行う余興のように社会生活におけるレクリエーション的な行事は多くの地域でみられる習俗的・伝統的遺産ととしての行事と同様にその行事を通じ住民が郷土感にひたり、年に一度の娯楽を求め、共通の連帯意識を育むことが大きな要素であって、これに自治会が参加することは差し支えないものである」)
と、言うものであるが、それは地方公共団体が作成した文書ではなく、昭和五十年1月に、自治研究委員会なるものが作成した(研究結果報告書)からの抜粋からの引用に過ぎないというわけであるから、

上記の自治会執行部の日本国憲法第20条第89条を完全に無視した、神社氏子の関与なき、自治会による均等割り自治会費増額による山車の完全建造管理維持運営 の企画は、地方公共団体による合憲の証明裏書きなど不存在であるにも関わらず、あるかのごとく虚偽の事実をのべた

詐欺の所為であるわけであるのです。

以上の出来事は、地方公共団体政令指定都市浜松市での今起きていることであります。


祭祀は、神社神道における中心的表現であり、神社神道において最も重要な意義をもつものである。このことは、すべての神道学者が力説するところである。神社の宗教的活動は、祭りの営みにあるといつてよいくらいである。祭祀は、神社神道における神恩感謝の手ぶりであり、信仰表明の最も純粋な形式であるといわれる。教化活動は、祭りに始まり、祭りに終るということができるのであつて、祭祀をおろそかにしての教化活動は、神社神道においては無意味であるとされる。すなわち祭祀は、神社神道において最も重要にして第一義的意義を有するものであり、儀式あるいは儀礼が最上の宗教的行為なのである。